紫香楽宮近くの鍛冶屋遺跡から銅鋳造工房跡出土 滋賀県信楽町の紫香楽宮(しがらきのみや)跡近くの鍛冶屋敷遺跡から、8世紀中頃の大規模な銅の鋳造工房跡が出土したと滋賀県教委が10日、発表した。奈良時代に聖武天皇が大仏を造るために築いた甲賀寺跡に近く、溶解炉、たたら(足踏み式送風機)、鋳込み場の3つの跡がセットで16基見つかった。聖武天皇が天平15(743)年に紫香楽宮で出した「大仏造立(ぞうりゅう)の詔(みことのり)」を裏付ける「物証」で、ここでの技術が東大寺の大仏造立につながったとみられる。 鍛冶屋敷遺跡は、甲賀寺跡(国史跡紫香楽宮跡)の北東約400メートル。出土した遺構から推測すると、銅を溶かす溶解炉は直径約1メートルの円筒形、そこに風を送るたたらは長さ2.8メートル、幅0.7メートル。鋳込み場は一辺1メートル前後の方形など様々な形だった。 古代の大型鋳造遺構は、東大寺で溶解炉と鋳込み場が出土したケースなど数例しかなく、国内の古代遺跡で鋳造に必要な3点セットがまとまって見つかったのは初めてだ。 この3点セットは南北50メートル以上の範囲に、8基ずつが東西2列に並んでいた。これとは別に、西側に一辺4.4〜5メートルの鋳込み場の遺構が2基出土した。この中から釣り鐘(直径1.8メートル、高さ2.5メートル)を造った鋳造跡と、一辺約1メートルの六角形で、内径が約2メートルある仏像の台座の鋳造跡が確認された。 県教委は「甲賀寺に仏像など銅製品を供給した官営工房」とみる。 史書「続日本紀」によると、聖武天皇は743年10月、紫香楽で大仏造立の詔を出し、すぐに甲賀寺を開いた。翌年11月には甲賀寺で大仏の中心柱を立てる儀式があり、自ら縄を引いた。745年1月に紫香楽を新たな都としたが、山火事や地震が相次ぎ、同年5月に平城宮に都を戻している。 このため、紫香楽での大仏造立は未完のまま終わった。しかし、今回の発見は、高い鋳造技術を持った職人集団が共同作業できる状況があったことを裏付けており、これらの技術や経験が東大寺の大仏造立に引き継がれた、とみられている。 松村恵司・奈良文化財研究所考古第2調査室長(考古学)の話 「銅が大変貴重な資源だった当時、相当な数の職人たちが銅を大量に鋳造した様子が分かる第一級の資料だ。この遺構を見ると、聖武天皇が大仏を造るため、甲賀寺の造営という国家的大事業をどんなに強く推進したかという意欲が伝わってくる。」 紫香楽宮 滋賀県信楽町にある紫香楽宮跡は1926年、国史跡に指定された。だが、30年から始まった発掘調査で、この遺跡は東大寺に似た寺院の伽藍(がらん)配置をとっていることが判明。84年から北東にある宮町遺跡の発掘調査が始まり、00年に国政をつかさどる朝堂の建物とみられる西脇殿、01年に東脇殿などが出土し、宮町遺跡が紫香楽宮の中枢部と確定した。国史跡の紫香楽宮跡は、聖武天皇が大仏造立を進めた甲賀寺と考えられる。 ◆紫香楽宮関連年表◆ 740年 聖武天皇が平城宮から恭仁宮(くにのみや、京都)へ遷都 742年 紫香楽宮の造営が始まる 743年 大仏造立の詔。大仏を造るため甲賀寺を開く 744年 恭仁宮から難波宮に遷都 745年 1月に紫香楽宮を新京(首都)とする 山火事や地震が相次ぎ、5月に平城宮へ還都 747年 東大寺で大仏鋳造開始 752年 東大寺で大仏開眼供養 2002年12月11日 -朝日新聞 より- |