続報 大安寺西塔は60メートル以上 東大寺に次ぐ規模 21メートル四方の基壇確認 奈良市東九条町の大安寺西塔跡で、21メートル四方の基壇が見つかり、奈良市教育委員会が20日、発表した。現存する最も高い東寺(京都市)の五重塔(高さ55メートル)や興福寺五重塔(高さ50.8メートル)よりも大きく、平安時代に燃えた東大寺七重塔(推定100メートル)に次ぐ規模という。 奈良市の史跡大安寺旧境内保存整備事業として約270平方メートルを調査。21メートル四方の基壇と基壇に上る階段、礎石の抜き取り穴などが見つかった。階段の近くから、塔の軒先に付ける風鐸(ふうたく、高さ30.3センチ)が完全な形で出土したほか、水煙の一部と見られる銅製品が出土。風鐸には、塗金がわずかに残っていた。奈良時代の南都七大寺の風鐸が見つかるのは初めてという。 出土した瓦などから、西塔の創建時期を奈良時代末から平安時代初めと推察。焼けた土や瓦なども二層から出土し、文献に記されているとおり、2度にわたって火災で燃えたことがわかるという。 同寺には東と西の2つの塔があったが、西塔は平安時代に燃えたことが文献に記されているが、規模や建立時期は不明だった。平安時代末の文献に、七重の東塔の存在が示されており、奈良時代末には東大寺に次ぐ60メートルを超える七重塔が東西に並び建っていたことが裏づけられた。 奈良市教委は「筆頭官寺だった大安寺が大規模な伽藍を誇っていたことが示される資料」と話している。 奈良文化財研究所の清水真一・建造物研究室長は「基壇も階段周りの石材も良く残っており、古代の基壇の外装がわかる貴重な資料。基壇規模だけで高さを推定するのは難しいが、現存するなかで最も高い東寺の塔よりは高いといえるのではないか」と話す。 同研究所の井上和人・考古第一調査室長は「風鐸と風招がセットで出るのは珍しい。形では、おそらく奈良時代の終わりごろと思われ、瓦の時期と一致する。水煙の一部など銅製品も興味深い。今後の調査でさらに出土が予想されるので、復元を期待したい」という。 大安寺の河野良文住職は「伽藍の立派さがあらためて示された。風鐸に塗金がわずかに残っているのを見ると、金色に輝く塔が平城京の真ん中に建っている様子が目に浮かぶ」と感激した様子で話した。 壮大な伽藍確認 東大寺の後に完成か 大安寺西塔 大安寺の歴史は、舒明天皇が飛鳥の百済川の近くに九重塔を建てたとされる百済大寺にさかのぼる。藤原京の高市大寺、大官大寺と名を替え、平城京遷都とともに現在の場所に移転。天平14(742)年に造営されたことが文献に残る。東大寺が造立されるまでは最大の寺院だったが、焼失やその後の荒廃で当時の様子をとどめておらず、今回の調査であらためて壮大な伽藍の様子が確認された。 今回の調査では、出土瓦から西塔の建立時期を奈良時代末から平安初期と推定。同寺は、天平19(747)年には金堂や講堂、鐘楼、南大門、僧坊などが備わっていたことや、天平神護2(766)年に東塔が存在していたことが文献などに記されており、西塔は伽藍が整備された後、年月を経て建立されたことがうかがえる。 一方で、聖武天皇は天平15(743)年に大仏造立の詔(みことのり)から東大寺の建立を進めており、天平宝字8(764)年には東大寺で東西の塔が完成したことが文献などに残る。大安寺の西塔は、東大寺の塔の後に完成していたことになる。 奈良市教委では「仏舎利などは東塔に収めたため、西塔を必ず作る必要がなく、一時中断していたのでは。東大寺の両塔のあとに大安寺の西塔を整備したと考えられる。東大寺を造立してもなお、新たに塔を建立した面に、筆頭官寺としての大安寺の威容が感じられる」と話している。 2003年2月21日 -奈良新聞 より- |