復興大伽藍(1) 実を結ぶ写経700万巻
 落慶待つ薬師寺大講堂


 奈良市西ノ京の薬師寺(松久保秀胤管長)で今月21日から、大講堂の落慶法要が営まれる。橋本凝胤管長の悲願を受け、昭和42年に高田好胤管長の就任とともに始まった同寺の伽藍復興。金堂、西塔、中門、回廊と進められてきた主要伽藍の復興が大講堂の落慶で約1000年ぶりに成就する。1人ひとりの写経勧進で復興するという大事業は、大伽藍に実を結んだ。これまでに寄せられた写経は700万巻を超えるという。

火災と戦乱でほとんど焼失
 薬師寺は、天武天皇が皇后(のちの持統天皇)の病気平癒のため発願し、藤原京に創建。完成を待たずに天武天皇は亡くなるが、即位した持統天皇が引き継ぎ、文武2(698)年に完成させる。平城京遷都に伴い、現在の西ノ京に移転した。荘厳で優美なたたずまいは「龍宮造り」と呼ばれるが、度重なる火災と亨録元(1528)年の戦乱で伽藍のほとんどを焼失。金堂と講堂は江戸時代に再建されるが、創建当初の面影は、フェノロサが「凍れる音楽」と評した水煙を戴く東塔でうかがえるだけとなった。戦後の農地解放で寺領も没収され、境内地は大きく縮小した。


 「薬師寺は古い礎石が残っているので、文献をもとにすると比較的簡単に昔の姿がわかるのです」と伽藍復興建設委員の鈴木嘉吉氏(74)。創建当初の伽藍を示した図面や絵図が残っていない薬師寺の伽藍復興は、発掘調査と文献資料をもとに、伽藍復興建設委員らが協議を重ねて建物の復元を試みた。
 平安後期の古寺巡礼記に「重閣、各層に裳層(もこし)あり」と記され、2層の金堂に東塔と同じ裳層があることがわかる。長和四(1015)年に書かれた薬師寺縁起には「2重2閣、長7丈8尺5寸、広4丈1尺、柱高1丈9尺5寸」と記されており、建物の規模がわかる。発掘調査で見つかった礎石で柱間が示され、細部の構造は東塔を手本に設計したという。
 下層は比較的簡単に復元できたが「上部がわからないので、激論が交わされました」。建設委員の大岡実氏と浅野清氏が激論を繰り広げ、2説にもとづく模型を制作。しかし模型で比較すると外観上は大差なく、構造的に安定する方に落ち着いたという。

 議論を重ねて昭和51年に金堂が復興されるが、落慶後間もなく西塔も復興する。「立派な金堂ができると、東塔だけではなんとも寂しく、ほかがみすぼらしく感じられた。何より、西岡(常一棟梁)に西塔を造りたいという熱意が強かった」。
 その背景には、金堂が奈良時代の完全な復元にならなかったことが挙げられる。国宝の本尊を安置する以上、火災から守る収蔵庫としての機能を文化庁から求められ、内部は鉄筋コンクリート。火災時には、柱間に防火シャッターが下りてくる。「鉄筋コンクリートの建物に木造の皮がかぶっているようなものだったのが心残りだったのだろう」と話す。
 西塔復興に取り組むうちに伽藍復元の気運が高まり、中門、玄奘三蔵伽藍、回廊へと着実に進む。昭和56年に西塔、59年に中門、平成3年には回廊の一部と法相宗の始祖、玄奘三蔵をまつる玄奘三蔵伽藍が完成した。=つづく=

                      2003年3月13日 -奈良新聞 より-

index