復興大伽藍 (2) 逆風の中、大講堂再建
 落慶待つ薬師寺大講堂


 西塔が完成したばかりの昭和56年、台湾政府がこれまでの伽藍(がらん)復興で使用していた台湾産ヒノキの輸出を規制するという情報が飛び込んできた。日本では、薬師寺の大講堂に用いるような樹齢1000年ものヒノキは手に入らない。早急に買い付けを始める必要に迫られた。
 「まだ江戸時代に再建した講堂が建っており、発掘調査ができない。文献で建物の規模は分かるが、柱間寸法が正確に分からない。そのなかで設計し、柱や梁(はり)、隅木など主要な部分に用いるヒノキを買い付け、製材も済ませました」と伽藍復興建設委員の鈴木嘉吉氏(74)。文献と発掘調査の資料を基に復元の構想を決めるという手順ではとても間に合わなかった。
 江戸期再建の講堂を取り壊したのは平成7年夏。基本設計が昭和56年、材木の買い付けが同63年ということを見るだけでも、その大変さが分かる。
 大講堂の規模は、長和4(1015)年の薬師寺縁起に「1重7間4面の裳層(もこし)がある建物で、裳層の柱高1丈3尺6寸、長12丈6尺、広さ5丈4尺5寸」と記されている。発掘調査でも、礎石跡などからこの記述を裏付ける結果が表れた。調査結果を基に、設計に微調整が加えられたが「支障が生じることはなかった」。
 発掘調査で南北に3カ所ずつ階段が見つかり、その位置に階段と戸を復元。縁起には「南に戸無し」と書かれていたが、防犯面から戸を無くすわけにはいかず、開放できるように工夫を凝らした。

 創建時の大講堂には、持統天皇が天武天皇のために造顕した繍仏画が祭られていた。阿弥陀三尊像の周りに菩薩や天人が配された極楽浄土を描いた図柄で、高さ3丈(8メートル88センチ)、幅2丈1尺(6メートル45センチ)の大きなもの。享禄元(1528)年の火災で焼失したが、大講堂の復元では、将来的にこの大きな繍帳が復元され、大講堂に掲げられることを想定して設計を進めたという。
 屋根の形は、寄せ棟か入り母屋かで建設委員の間で議論が分かれた。2種類の模型を製作するが、入り母屋を主張した西岡常1棟りょうに従い、入り母屋で復元された。「中国では寄せ棟の方が格式が高いとされ、紫禁城などは寄せ棟。日本人は入り母屋を好む傾向にある。文献にも屋根の形までは書いておらず、こういうところでは造る人の感性による部分も大きいですね」と鈴木氏。

 30年以上にも及ぶ伽藍復興を経て、薬師寺は金堂と東西両塔、講堂を回廊で囲む大伽藍に再興。龍宮造りと呼ばれた創建当初の壮美を取り戻した。鈴木氏は「奈良時代の第1級の伽藍というのはこのようなものだということを実感してもらえるのでは」と話す。

 奈良時代、大安寺に800人もの僧侶がいたことが大安寺資材帳に記されている。薬師寺の伽藍の規模は奈良時代の大安寺とほぼ同じで、薬師寺にも少なくとも700人近くの僧侶がいたと想定される。
 「大講堂は、僧侶らが学び、研さんを深めた中心の場所。復興された伽藍のなかに身を置くと、700人もの僧侶が学んでいた奈良時代の大寺院の息吹が感じられますね」。

                      2003年3月14日 -奈良新聞 より-

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