復興大伽藍(4) 師の志を引き継いで 落慶待つ薬師寺大講堂 平成7年4月、薬師寺の伽藍復興を手がけてきた西岡常一棟りょうが亡くなる。平成8年3月に行われた大講堂の起工式で、西岡棟りょうに30年近く仕えていた上原政徳さん(70)が棟りょうとなり、伽藍復興を引き継いだ。 「偉大だった西岡棟りょうの名を汚さぬように取り組んできました」と上原さん。 上原さんは、もとは大阪で一般建築を手がけていたが、昭和43年に斑鳩町の法輪寺で三重塔を再建していた西岡棟りょうのもとへ職人として入る。茨木市で寺を建てたことがあり、新聞で読んだ西岡棟りょうのもとで本格的に寺院建築を学びたいと思ったのが動機だった。 宮大工について、日光東照宮の眠猫を手がけた彫師の左甚五郎のイメージを抱いていたという上原さんは「西岡棟りょうはそのイメージとは全然違いました」。特に仏教に対する造けいの深さ、木に対する取り組み方に感銘。言葉で言い表せないほど影響を受けたという。 薬師寺の大工たちは、今ではほとんど使われなくなった槍鉋(やりがんな)や釿(ちょうな)、与岐(よき)という昔ながらの道具を今も使う。「道具が簡単ということは、それだけ木をよく知らないと使えない。木の良し悪しを見分けたり、木の性質をよく知ることにつながる」と上原さん。西岡棟りょうの木に対する姿勢は、上原さんに受け継がれている。 薬師寺の伽藍復興に用いられたのは台湾ヒノキ。「建物は木の樹齢の長さだけもつ。1000年もつ建物には、1000年のヒノキでないとだめと西岡棟りょうは常々言っていた。1000年のヒノキは日本では手に入らなかった」と上原さん。 台湾ヒノキの輸出規制の情報が飛び込んできたあと、昭和63年から大講堂のためのヒノキの買い付けに台湾まで足を運んだのは上原さんだった。 「木は山で買えというのも西岡棟りょうが言っていたこと。現実には同じ山でそろえることは難しいですが、材質を均一にするためにも、できる限り近くの木でというのが棟りょうの持論でした」。 上原さんは月に1度は台湾を訪れ、西岡棟りょうの代わりに木を見て確かめた。大講堂に用いた材木は1449.82立方メートルに上るという。 偉大な師匠の後を引き継いだ上原さんは「棟りょうの敷いたレールの上を脱線しないようにと思ってきただけで、特に気負いもなかった。職人も、長く働いている人がほとんどなので気心もしれている」と淡々と語る。 だが、金堂の経験があるのは上原さんただ1人。だからこそ「職人たちは、金堂に負けないものを作ろうという意気込みがありました」。 耐震構造はあるものの、大講堂は金堂では果たせなかった純木造。奈良時代の様式で復興させた薬師寺の伽藍を上原さんは「奈良時代の建物はとても優しい。鎌倉や江戸の建物のように威圧するようなところがない」と感じている。 自身が棟りょうとなって完成させた大講堂には「30年間の感謝の気持ちとその集大成。出来栄えは後世の人に評価してもらえればいい」と優しい目で伽藍を見上げた。 2003年3月16日 -奈良新聞 より- |