藤原京朱雀大路は途中まで 寺で延ばせず中断?

 橿原市和田町の藤原京右京11条一坊で、飛鳥時代の寺院、和田廃寺(7世紀前半−8世紀中ごろ)に伴うとみられる掘っ立て柱建物群が見つかった。12日発表した県立橿原考古学研究所によると、藤原京の計画段階で造った道路を埋めて建てられており、寺域を通るはずの朱雀大路も存在しないことが分かった。京域の南端に近く、藤原京の造営プランを知る上で重要な資料。

 掘っ立て柱建物跡は五棟分が見つかり、最も大きい建物跡は東西23.5メートル、南北4.8メートル。近くでガラス玉の鋳型が出土し、工房だった可能性もある。井戸や塀の跡もみつかつた。
 いずれも藤原宮期(694−710年)の施設で、朱雀大路の西側を通る西一坊坊間路(幅約6.3メートル)は、建物群の建設に伴い、埋められていた。
 和田廃寺に近く、伽藍(がらん)中心部と同じ瓦が出土したことから、藤原京遷都に合わせて寺域を拡張整備したと推定できる。
 同研究所は平成12年から一帯を調査しており、大路に次ぐ規模の坊間路を埋めて寺域が整備されている▽東側の朱雀大路想定地で道路遺構が見つかっていない−などの理由から「朱雀大路の存在を考えることは困難」と結論づけた。
 朱雀大路は藤原宮の朱雀門から南に延びるメーンストリートで、幅24メートル。約260メートル南側の日高山では、丘陵を切り通して朱雀大路が建設されていた。今回の調査地は日高山から南に約1キロ離れており、京域の南端に近い。

 日本書紀によると、天武天皇は676年に「新城(にいき)」の造営を計画、西一坊坊間路はこの時期の建設と考えられている。その後、都づくりは中断し、持統天皇に受け継がれて完成した。

 現地説明会は15日午前10時から正午まで。現場は近鉄橿原神宮前駅から東へ徒歩15分。

木下正史・東京学芸大教授(考古学)の話 平城京のように新たな土地に都を造ったのではなく、飛鳥の伝統を踏まえて造営されたのが藤原京。そのために中途半端にならざるを得ない部分もあったのだろう。朱雀大路も日高山の南側では背骨のような役目を果たしていなかったと考えられる。

和田廃寺 「続日本紀」の光仁天皇即位前紀に記された葛城寺が有力候補。蘇我氏と密接な関係にあった葛木(城)臣が7世紀前半に建てたと考えられている。伽藍は平城京遷都後も存続した。

                      2003年11月13日 -奈良新聞 より-

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