正殿級の大型建物跡-飛鳥浄御原宮の中枢施設?-飛鳥京跡

 明日香村岡の飛鳥京跡で、石敷きの広場や庭園を伴う7世紀後半の大型建物跡が見つかり、県立橿原考古学研究所が8日、発表した。天武天皇(在位673-686年)が造営した飛鳥浄御原宮(きよみはらのみや)の内郭正殿とみられ、三重の塀で厳重に区画されていた。橿考研は天皇が日常生活を送るプライベート空間とみており、酒宴や儀式にも使われたらしい。宮殿中枢部の様子や構造の変遷を知る上で一級の資料となりそうだ。
 飛鳥京跡の調査は昭和34年に始まり、複数の宮殿が重ねて営まれたことが分かっている。最上層は飛鳥浄御原宮と考えられていたが、今回の調査で裏付けられた。
 建物跡は東西四間(12メートル)以上、南北二間(6メートル)以上。確認されたのは全体の約4分の1で、宮殿の中軸線で折り返すと、東西八間(24メートル)の巨大な建物だったことになる。
 雨落ち溝(幅60-70センチ)に階段を取り付けた跡があり、高さ2メートルほどの高床建物と推定できる。後の内裏にあたる内郭の中でも中枢施設だった可能性が強い。
 南側には人の頭ほどの石を敷き詰めた石敷き(約300平方メートル)が広がり、荘厳な雰囲気を演出していた。三重の塀は石敷きの南側を区画、門は確認されていない。
 大型建物跡の西側では、庭園とみられる池跡が見つかった。現状で東西8.5メートル、南北7メートル。小石が州浜のように敷かれ、張り出し床の柱穴も残っていた。庭園を眺める縁があったらしい。
 昭和54年には周囲に砂利を敷いた東西七間の大型建物跡が現調査区の南側で見つかっており、前殿と位置付けられてきた。
 三重の塀はこの建物との間を区画。石敷きと砂利敷きの違いなど、使用方法にも明確な区別があったとみられている。
 前殿の後ろに正殿を置く構造は、孝徳天皇(在位645-654年)の難波長柄豊碕宮(前期難波宮)にも共通する。
 飛鳥浄御原宮は斉明天皇(在位655-661年)の後飛鳥岡本宮に新たな宮殿区画(エビノコ郭)を付けて完成したといわれる。これらの施設も、斉明天皇の時代から継続して使われたらしい。
 日本書紀には、飛鳥浄御原宮の施設が多数記録されており、今回の建物跡がどの施設にあたるのか、宮殿構造の解明と併せて論議を呼びそうだ。
 現地説明会は13日午前10時から午後3時。説明は随時。現場は明日香村役場の北約100メートル。

 今泉隆雄・東北大大学院教授(日本古代史)の話
推古天皇の小治田宮では儀式や宴会も正殿で行われていた。公的空間の前殿が設けられ、正殿が私的生活空間となるのは次の段階。後飛鳥岡本宮や飛鳥浄御原宮がその流れを汲むことが明らかになった。立派な石敷きを伴う今回の施設は、公的な役目を持った私的空間「ハレの場」と言えるのではないか。内郭の正殿とみてよく、重要な成果だ。さらに調査が進めば日本書紀に記された各施設との対応も可能になるだろう。

                    2004年3月9日 -奈良新聞 より-

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