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現れた日本書紀の世界-天武天皇が親王と宴? 水田の50センチ下は1300年前の宮殿だった―。明日香村の飛鳥京跡で見つかった飛鳥浄御原宮の中枢施設は、日本に律令国家の基礎を築いた天武天皇の権力をほうふつとさせる。飛鳥京跡を長く研究してきた専門家も「これほどの石敷きは見たことがない」と驚きを隠さない。どのように使われた施設なのか。日本書紀の記録や、これまでの調査成果を絡めて論議を呼びそうだ。 天皇の住まいでもあった内郭(内裏)は、南門を入ると前殿があり、三重の塀の向こうに今回の大型建物がそびえていた。床までの高さは推定約2メートル。石敷きの広場からは「見上げる」という表現がふさわしい。 橿考研は、内郭で最も重要な正殿級の建物とみている。正殿や前殿は位置関係に基づく通称で、日本書紀に記された飛鳥浄御原宮の施設(殿舎)は大極殿、大安殿、内安殿など約30に上る。 菅谷文則・滋賀県立大教授(考古学)は「斉明天皇の後飛鳥岡本宮を利用しつつ造営されたのが飛鳥浄御原宮。古い建物と新しい施設が複雑に共存していたのだろう」と思いを巡らせる一方、「天武がこの建物に座っていたのは間違いない。日本書紀の世界が目の前に現れたようだ」と話す。 石敷きを巡らせた大型建物跡は、どの施設にあたるのだろう。天武10(681)年の正月には、親王や諸王を内安殿に招いて宴会を開き、諸臣は外安殿で酒を振る舞われたという。2つの施設は対置関係にあったらしい。 和田萃・京都教育大教授(日本古代史)は「2メートルの高床なら、かなり高い建物。小苑池もついており、内安殿とみてよいのでは。外安殿は前殿だろう。身分差が宮殿の構造にも表れている。石敷きには神聖性を際立たせる視覚的効果もあった」とみる。 前殿を調査した河上邦彦・橿考研付属博物館長(考古学)は、砂利敷きと石敷きの違いに注目。前殿の周囲は神社のような砂利敷きだった。 「砂利敷きの広場は走りにくく、襲いかかろうとしてもつかまえられる。ひざまずいても痛くなく、儀式用の施設だろう。今回の建物跡は石敷きで、天皇が皇子や重臣と相談するなど、具体的な政治を行う場所」と指摘する。 「壬申の乱」に勝利した天武天皇が、律令国家へと足場を固め始めた時代。次の段階の藤原宮では、役人たちが政務をとる朝堂院が設けられ、国家的な儀式は大極殿で行われるようになる。内裏は天皇の純粋な生活空間だった。 猪熊兼勝・京都橘女子大教授(考古学)は「飛鳥の宮殿調査の原点とも言える成果。天皇の生活空間と政治の場が同居し、未分化だったことが分かる」と話している。 2004年3月9日 -奈良新聞 より- |