時代の先端、馬子"夢の跡"-明日香・島庄遺跡

 飛鳥寺を建立して国内に仏教を広める一方、物部守屋との争いや崇峻天皇暗殺など、数々の権力闘争を主導した蘇我馬子。明日香村の島庄遺跡で見つかった建物群は、策略を巡らす舞台だったかもしれない。豪腕の政治家か、仏教受容の立役者か。人物像にもあらためてスポットが当たりそうだ。
 馬子が父の稲目から大臣位を継承し、政治の舞台に踊り出たのは敏達元(572)年。それから生涯を閉じるまでの約50年間、天皇の即位さえ左右する強大な権力をふるい続けた。見つかった7世紀前半の大型建物跡は、馬子の生きた時代に重なる。
 門脇禎二・京都橘女子大名誉教授(古代史)は「当時の日本で方形の池は異質。先進的な文化を進んで取り入れた結果で、そのような平面プランを持てるのは馬子しかいない。同じ規格(方位)の建物跡が邸宅の一部だった可能性は十分ある」と話す。
 仏教の導入で対立していた物部守屋を滅ぼし、豪族をまとめる一方、東漢氏(やまとのあやうじ)ら渡来系の氏族を率いて政権の中枢を担った。
 門脇名誉教授は「隋との外交も馬子が主導したと考えられ、政治、外交、文化のすべてに画期的な功績を残した。聖徳太子の名前で行われた政策も、馬子が作った可能性が高い」とみる。
 馬子の登場後、3人の天皇が即位、推古天皇(在位592〜628年)の時代には、17条憲法の発布や遣隋使の派遣など、国内外の情勢が目まぐるしく動いた。
 氏寺として建立した飛鳥寺に丈六仏(飛鳥大仏)を安置したのは推古17(609)年。崇仏派の先駆けだった父・稲目の遺志を受け継いだ。
 一方で、自ら擁立した崇峻天皇(在位587〜592年)を暗殺するなど、血生臭いイメージも付きまとう。日本書紀によれば、イノシシを献上された崇峻天皇が「このイノシシの首を切るように、自分が憎いと思う人間を斬りたいものだ」と発言したのがきっかけという。
 法灯を伝える山本宝純住職は「権力闘争も事実だが、異文化だった仏教文化を国内に定着させた立役者。その功績が17条憲法へ受け継がれる。飛鳥文化は馬子を抜きに考えられず、これを機会に馬子像を見つめ直してもらえれば」と話している。


                    2004年3月12日 -奈良新聞 より-

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