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過去最多木簡5000点超-藤原宮跡 橿原市高殿町の藤原宮跡で、宮内の警備を担当する衛士(えじ)の勤務表や薬の処方せんなど、5000点以上の木簡がまとまって見つかっていたことが、7日までに分かった。1カ所からの発掘点数としては藤原宮内で過去最多。記された年代は大宝律令が施行された大宝元年(701年)など8世紀初頭が中心で、律令国家初期の行政システムを知る重要な資料という。 現代の国会議事堂にあたる朝堂院回廊の東南隅を奈良文化財研究所が昨年4月から発掘調査。木簡は回廊の東側を流れる幅2.5メートル、幅0.5メートルの溝に堆積(たいせき)していた。 年代が確認できる木簡は4点。「戊寅年」(天武7=678年)を除き、いずれも8世紀初頭で、日常事務に伴って短期間に捨てられた可能性が強い。 地方から徴発され、宮内の警備や雑役を担当した衛士の木簡のうち「夜不仕人猪手列丸マ国足」は、猪手という人物をリーダーとするグループの勤務表。「列」は衛士の構成単位と考えられ、丸マ国足(わにべのくにたり)という名前の衛士が、夜勤に当たっていないことを記録している。 また逃亡を示す「逋」は「逃」と同じ意味で、複数の衛士の逃亡を記した木簡もあった。「奈須郡」(栃木県付近)や旦波国(京都府北部)などの地名は衛士の出身地とみられる。 木簡を解読した同研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部の竹内亮さんは「朝堂院の回廊はこの時期に改築されており、現場を警備する出先機関が近くにあったのではないか。解読が進めば勤務実態をさらに明らかにできるのでは」とみている。 処方せんの木簡は1点で、長さ27センチ。表に「秦膠酒(しんきょうしゅ)」という薬酒の効能、裏に配合する薬草名と配合量が書かれていた。関節痛などに効果があり、初唐の医書「千金要方(せんきんようほう)」に収録された薬酒の処方と一致する。 藤原宮の木簡は、北面大垣周辺で昭和41年に見つかった約2000点が最多。今回は、削り屑を含め5000点を超えており、今後の整理で、過去の調査合計数を上回る可能性もある。 東野治之・奈良大教授(日本古代史)の話 藤原京は平城京に比べ存続期間が短く、木簡がまとまって見つかることは少ない。7世紀後半から平城京と同様の衛士のシステムが動き出していたことが分かる貴重な資料だ。勤務実態や集められた地域も興味深い。 2004年7月8日 -奈良新聞 より- |