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唐の都、もう一人の仲麻呂がいた? 墓誌発見の日本人 奈良時代、唐の都・長安(現・西安)に渡り活躍した一人の日本人の存在が浮かび上がった。中国の西安で発見された墓誌には、留学生として中国に渡り、懸命に学びながら36歳で亡くなった「井真成」の人生が記されていた。1200年以上前の、日中交流の一場面を描き出す驚きの発見。阿倍仲麻呂と同じ717年の遣唐使船に乗り合わせたとみられるが、日本では記録は見つかっていない。どんな人物だったのか、「もう一人の仲麻呂」像を描いてみると……。 最大の手掛かりは「井」という中国姓だ。 鈴木靖民・国学院大教授(日本古代史)は、井を日本名の痕跡と考え、「井上」という一族に注目する。現在の大阪府藤井寺市一帯を本拠とし、忌寸(いみき)という渡来系に多い姓(かばね)を与えられていた。遣唐使など外交官の任務につくものが多く出ているという。 「遣唐使に参加できるのは、特に優秀か、特別なコネがある、限られた人物。高級官僚になるための試験・科挙にも合格したかもしれない。そのためには何より語学力が必要だった」として、「一族きっての秀才で井上真成という名前の若者だったのではないか」と考える。 東野治之・奈良大教授(日本古代史)は渡来系の氏族、「葛井(ふじい)氏」の出身ではないかと考える。葛井寺(藤井寺市藤井寺)の創建にかかわった河内の貴族で、飛鳥から奈良時代にかけて、遣唐使などを多く出した。「ふじいのまなり――という名前だったのでは」と推定する。 「皇帝が死を惜しんで官位を追贈したという。こうした厚遇を受けるのは非常に異例のことだ。よほど優秀な留学生だったのだろう」とみる。 贈られた役職は「尚衣奉御」。石見清裕・早稲田大助教授(中国史)によると、殿中省尚衣局の責任者だという。殿中省は王宮内の管理が業務で、尚衣局は皇帝の衣服関係を担当。奉御はその責任者で2人いた。部下は20人程度で、「部長」的な役回りだったようだ。 当時の長安は人口100万人の世界一の国際都市。行政や法律の仕組みなどを学ぶために渡った日本の留学生は、いつ来るかわからない次の遣唐使船を待ちながら、勉学、職務に励んだ。実際には次に遣唐使が日本を出発したのは、733年。懸命に学び知識を蓄えた井真成は734年の1月に死亡した。最初の一隻が唐からの帰国の途についたのはその年の秋。故郷に錦を飾るのを目前にした死だったようだ。墓誌には「無念」を思いやる記述が残っている。 〈阿倍仲麻呂とは〉墓誌の人物とともに留学生として唐に渡った阿倍仲麻呂は玄宗皇帝にその才能を認められ、朝衡(ちょうこう)などと名を変えて唐王朝の要職を担った。一度は帰国の途に就いたが船が難破して安南(現在のベトナム)に漂着。再び長安に戻り、安南節度使などを歴任して770年に中国で亡くなった。その名は「続日本紀」などに見える。李白や王維ら一級の文化人とも交遊し、彼らの惜別や哀悼の詩にもうたわれている。「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも」という歌でも知られる。 2004年10月10日 -朝日新聞 より- |