蘇我蝦夷「畝傍の家」は橿原遺跡付近か、出土の瓦から判明

 大化改新で滅ぼされた飛鳥時代の大豪族、蘇我蝦夷(えみし)(??645)の邸宅として日本書紀に記されている「畝傍(うねび)の家」が、奈良県橿原市の橿原遺跡付近にあった可能性が高いことが、県立橿原考古学研究所の清水昭博・主任研究員の研究でわかった。

 同遺跡で約70年前に出土した7世紀前半の瓦が、蘇我氏ゆかりの同県明日香村の豊浦(とゆら)寺跡で出土した瓦と一致した。近年の調査で同村の甘樫丘東麓(とうろく)遺跡にあった可能性が高まった蝦夷・入鹿父子の邸宅とともに、絶頂期の蘇我氏の実像を探る重要な手がかりになる。

 瓦は、軒先を飾る軒丸瓦(直径17センチ)の一部で、1938?40年、橿原神宮外苑の工事に伴う発掘調査で、畝傍山の東約600メートルの井戸跡から出土。清水主任研究員が、瓦の文様を調査した結果、蘇我蝦夷の父、馬子が建立した豊浦寺跡付近で1977年に出土した瓦と、花弁の形や模様がそっくりで、同じ型から作られたと判断した。京都府宇治市にあった瓦窯で生産されたとみられる。

 日本書紀によると、蝦夷の邸宅については、「畝傍の家」「甘樫丘の上の宮門(みかど)の家」「豊浦の家」の記述がある。このうち、「畝傍の家」は642年に百済の使節をもてなし、大化改新直前には「池を掘って城とし、武器庫に矢を積み、50人の兵士が出入りした」と記されている。場所は畝傍山の東とされ、橿原遺跡は位置的にも一致する。


                     2008年2月28日 -読売新聞 より-

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