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定家自筆の手紙、裏に「明月記」? 徳川美術館調査 「小倉百人一首」を選んだ歌人、藤原定家(1162〜1241)の自筆の手紙が発見された。裏面ははぎとられているが、表に残った字の跡や紙の形状などから、定家の日記「明月記」の一部が書かれていたとみられる。関係者は「重要文化財級」と話している。 愛知県内の個人が所蔵していたもので、徳川美術館(名古屋市東区)の調査で明らかになった。タテ31.4センチ、ヨコ95.8センチで、表装されている。「定家様(ていかよう)」と呼ばれる独特の筆跡や、末尾にある「五旬病者家」という署名から、定家の自筆と判定された。「五旬」は「五十」を意味することから、定家が50代だった1210年代の手紙とみられる。 内容は、民部卿(きょう)などを務めていた定家が、後鳥羽上皇の行幸の準備について頭弁(とうのべん)という役職者に問い合わせたものと読める。当時の習慣で、頭弁が行間などに返事を書いて返送。その裏側を利用して定家が日記を書いたとみられる。日記の年代や内容はまだ明らかになっていない。 「明月記」の原本は当初、巻物だったが、後に折りたたんだ冊子状でひもでとじて保管されたという。今回の手紙には、ひもを通す穴の跡と折り目があり、形状からも原本の用紙と確認できるという。 冷泉家時雨亭文庫(京都市上京区)にある「明月記」の原本を長年調査した藤本孝一・龍谷大客員教授は「手紙からは、朝廷の儀式の実際が明らかになるだろう。高級官僚としての定家は、そうした資料を残すためにも、手紙の裏に日記をつけたのではないか」と話している。 徳川美術館の調査では他に平安時代の高僧・覚鑁(かくばん)の自筆書状も見つかった。1133年に鳥羽上皇の側近にあてたもので、上皇の勅命で真言宗の秘法を伝授されたことへの謝意をつづっている。写本は知られていたが、原本は重要文化財級という。これらの文書は徳川美術館で11日から始まる「書の名品をたずねて」展で公開される。(西岡一正) 2009年4月3日 -朝日新聞 より- |