醍醐寺三宝院唐門、別建物から移築 府教委調査 金具跡など根拠に

 京都市伏見区の醍醐寺三宝院唐門(国宝)が、別の建物からの移築であることが、京都府教委の調査で29日までに分かった。唐門は1599(慶長4)年の建立で、豊臣秀吉が建てた伏見城の移築との伝承がある。府教委は「伏見城との関連は不明だが、少なくとも伝承を否定しない成果だ」と注目している。

 唐門は落雷で柱の一部が破損したため2月から解体修理に伴い調査した。唐門は新築とみられていたが、移築の痕跡が次々と見つかった。

 左右の柱の上下に、今あるものとは違う扉を支えた金具の跡を示す埋木が見つかった。扉にも、かんぬきのコの字形金具の跡や、現在、桐の文様がある部分にX形に部材をはめ込んだ跡があった。

 また、門で、扉の上にあり左右の柱と接合する「まぐさ」という部材の両端に、現在の接合では不要なくぼみが見つかった。

 三宝院は醍醐寺歴代座主の住坊。応仁の乱で荒廃し、義演(1558〜1626)が豊臣秀吉の援助で復興した。復興の過程は「義演准后日記」に詳細に記されている。

 唐門は建立後に2回、境内で移築されている。府教委は▽見つかった痕跡が漆の下にあり、塗り直した痕跡がない▽日記に境内移築は「曳(ひ)き屋」の手法で行われたと記され、部材にも唐門建立後に解体した跡がない−ことから、醍醐寺以前の建物の痕跡と結論づけた。

 醍醐寺の建物では、金堂(国宝)が和歌山からの移築とされ、三宝院表書院(国宝)は興福寺(奈良市)に秀吉が薪能(たきぎのう)観覧のために設けた楽屋・桟敷の移築の可能性が指摘されている。

 ■後から桐紋、伏見城からの移築の可能性低い

 藤井恵介・東京大准教授(日本建築史)の話 文献に移築の記述はなく、解体して初めて分かった新資料で、大発見だ。金具の跡から、扉を付け替えていることが分かり、秀吉急死を受けて寄せ集め的に造ったことがうかがえる。(豊臣家の)桐の紋が後から付けられており、伏見城からの移築の可能性は低いと言えるだろう。



                    2009年7月30日 -京都新聞 より-

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